教えのやさしい解説

大白法 657号
 
本門の題目(ほんもんのだいもく)
 本門の題目とは、法華経文上脱益(もんじょうだつやく)の題目ではなく、『寿量品』の文底に秘沈された久遠下種・直達正観(じきたつしょうかん)・事行の一念三千の南無妙法蓮華経の題目です。
 すなわち、末法下種の御本仏日蓮大聖人が御図顕(ごづけん)された本門の本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えることを本門の題目と言います。
 第二十六世日寛(にちかん)上人は『文底秘沈抄(もんていひちんしょう)』に、
 「本門の題目には必ず信行を具(ぐ)す」(六巻抄 七〇n)
と、この本門の題目に信と行の二義が具わることを御教示されています。

 信
 大聖人は、仏道修行は戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三つに要約されるが、機根(きこん)の低い衆生は戒・定の二法を止めて慧の一行(いちぎょう)を行うよう説かれています。ところが、末法の凡夫はこの智慧の修行にも堪(た)えられないので、『四信五品抄』に、
 「慧又堪へざれば信を以て慧に代(か)ふ。信の一字を詮と為(な)す」(御書 一一一二n)
と、信をもって智慧に代える、以信代慧(いしんだいえ)の行業が肝要であると仰せられているのです。この信とは無疑日信(むぎわっしん)の信を言い、仏の教えを心に深く受け持って疑わないことです。『御義口伝(おんぎくでん)』には、
 「三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。此の信の字は元品(がんぽん)の無明を切る所の利剣なり」(同 一七三七n)
と、三世の諸仏の成道は信の一字より起こり、また元品の無明を断ち切るのも信の一字によると説かれ、信心こそが仏道の根本であり、そこに即身成仏の功徳が具わることを御教示されています。

  行
 また日寛上人は『立正安国論愚記(ぐき)』に、
 「行の始めは是れ信心なり、信心の終わりは是れ行なり」(御書文段 六n)
と、行の始めには必ず信があり、その信が行となって顕れることを仰せられ、信行具足の題目が肝要であると御指南されています。行が伴(ともな)わない信心は、悪縁に遇(あ)うと容易(ようい)に退転してしまうので、信心があっても修行がなければ、本物の信心とは言えないのです。 
 また末法の題目は「三大秘法抄』に、
 「末法に入(い)って今日蓮が唱ふる所の題目は前代(ぜんだい)に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書 一五九四n)
と仰せのように、正像(しょうぞう)の題目と異なり、自行化他にわたる題目です。自行のために唱えるだけでなく、広宣流布を祈り、折伏に邁進する化他の題目でなければならないのです。

 唱題の意義と功徳
 日寛上人は『観心本尊抄文段(もんだん)』に、
 「我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ち是れ本尊なり。故に九界即仏界なり」(御書文段 二〇五n)
と、御本尊を信じるとき、御本尊の全体が我が己心(こしん)と冥合(みょうごう)して仏界即九界の本因妙を現じ、また御本尊に向かって題目を唱えるとき、我が身全体が御本尊と冥合して九界即仏界の本果妙を成ずることを仰せられています。
 つまり、私たちが信の一念において御本尊に題目を唱えるとき、衆生の九界と御本尊の仏界が感応道交(かんのうどうこう)・境智冥合し、この刹那(せつな)の一念に成道を遂(と)げ、即身成仏の大利益(だいりやく)を受けることができるのです。
 また法華経の修行は、受持・読・誦・解説・書写の五種の妙行が説かれていますが、末法の凡夫は『御義口伝』に、
 「五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべし」
 (御書 一七九五n)
と仰せられるように、受持の一行を行じて成仏するのです。これは、この受持が五種の妙行のすべてを具えた総体の受持であるからです。
 この受持について『観心本尊抄』に、
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(同 六五三n)
と、妙法蓮華経の五字に、釈尊の因位の万行の功徳も果位の万徳もことごとく具わっている故に、この妙法蓮華経すなわち本門の本尊を信受するとき、釈尊の万行万善の大功徳が譲り与えられると仰せられています。
 またこの受持には、仏力(ぶつりき)・法力・信力・行力の四種の力用(りきゆう)があります。
 仏力とは、妙法漫荼羅御本尊に具わる御本仏大聖人の衆生救済の大慈悲の力用を言い、法力とは、その御本尊に具わる妙法の広大深遠(こうだいじんのん)なる法力を言います。次に信力とは、私たちが本門の本尊を信じ、この御本尊のほかには成仏の道はないと強盛に信ずることを言い、行力とは、余事を交(まじ)えずにただ南無妙法蓮華経と唱えることを言います。
 私たちが御本尊を信じ題目を唱えるとき、この四種の力用が成就して、『聖愚問答抄』に、
 「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(同 四〇六n)
と仰せられるように、即身成仏を成じ、無碍自在なる大きな功徳を得ることができるのです。

 結 び
 この本門の題目の実体実義は、本門の本尊にあります。したがって、その根源である三大秘法総在(そうざい)・本門戒壇の大御本尊を強く信じ、御法主上人猊下の御指南のままに自行化他の修行に励むことが、唯一の成仏の大道です。
 これに引き換え創価学会の『ニセ本尊』に題目を唱えることは、全く功徳がないばかりか、むしろ正法誹謗(しょうぼうひぼう)となって堕地獄の業因となることを知るべきです。
 本年残り一カ月半、自行化他の題目を唱え、一人でも多くの人々を折伏してまいりましょう。